日記

よそ行きバージョン

やさしさバナナ

 

世間的連休が終わりつつある今日この頃、皆さん元気でお過ごしでしょうか。

大多数がお休みの中お仕事されていた方も、どこかでちゃんと休めますように。

みんなの休みの質や量は生まれた時から同じと決まっていて、それをかみさまが均等に、うまい具合にスケジュール管理しているんじゃないかと、私は思います。

 

年中、いろいろありますよね。

お正月に節分に、バレンタインひな祭りGW母の日父の日敬老の日クリスマス大晦日、そして自分の誕生日。

どれもこれも自分で設定したものではなく、なのにいつも通り起きて食べて寝るをやるだけではダメな気がする日がこれらで、完全に無視したくても、世間様と同じようにはしないぞと強い意志があったとしても、日付が変わるまでずっと心臓がグルグルして落ち着かない日。

こんな日は生きていると割と突然やってくるので、うまくかわす技術を体得したいと思いつつ、もう何十回も経験してきたはずなのに1年経つと人間なので大体忘れてしまっています。皆さんはどうですか。

 

世間的カレンダー通りの生活をここ数年送っていない私は、連休前の無敵感やどう考えたって笑うしかないようなめくるめく1週間が懐かしく、今だって手に取るようにあの時の高揚感を思い出すことができるし、一生忘れないと思う。あれはね、空だって飛べる。

 

この世間的連休も特にお出かけせず、家とカフェとスーパーのトライアングルを出ない生活に終始していたのですが、こういう時に私がいつもやるのは「過去を反芻すること」です。

反芻する、であり、思い出す、ではないのが個人的なこだわりで、これは何度も何度も隅々まで、味がなくなるまで噛むということ。

ネタは何だっていいんだけど、人間関係とかだと後悔ばかりで少々サディスティックなので、例えばいつか行った美術館のことをゆっくり反芻してみたりするのがおすすめです。

 

まさにこの数日思い出していたのは、3年ほど前に訪れた外国の田舎町にある小さな美術館のことで、そこは本当に田舎に違いなかったのに、なかなか前衛的な作品が並べられていたのでとても記憶に残っている。

私が一番気に入ったのは、その中で唯一マトモというか、いやマトモなんて言えば他の作品に失礼な気がするけど、多数ある作品の中で事実それだけがマトモな作品だったような、とてもまっすぐな作品でした。

自分が良いと思ったから、なんかそれをマトモだと勝手に認定してるだけかもしれないけどね。

 

それは映像作品で、ドイツかその辺のこれまた田舎町が舞台で、いつ撮られたのか分からないけど白黒の、すごく古い時代を思い起こさせるものだった。

私は小さな真っ暗の部屋でスクリーンに映し出される映像を、おそらく1時間くらいをかけて、3周ほど繰り返し見ました。

内容は、50代くらいの女性が毎晩ありとあらゆる建物に忍び込んで、そこにあるすべての電球を一つずつ取り外して家に持ち帰るというもの。

持ち帰った後の電球をどうするかまでは映されていなかったけど、その人は毎晩手提げ袋を電球でいっぱいにし、帰って何事もなかったかのようにパンとソーセージを食べていました。

 

私は現代美術館が結構好きで、それはきっと「何だか分からないもの」をたくさん回収できるからだと思う。もう既に知ってるものを見たって、それ仕方ないもんね。帰り道に「何が何だか全然分からんかった、私アホなんかな?」と思えたら、それはとても良い美術館です。

 

この数日間、電球泥棒の彼女について反芻しながら思ったのは、気持ちを反芻できる事柄というのは実はかなり貴重なんじゃないか、ということ。

私は彼女について、作品について、いろいろの感情を抱いたけど、それをすぐに誰かに発表する必要もなかったわけで、だからおよそ3年前に見たその映像についてじっくり反芻してもよかった。そして今なら、うまく説明できるかどうかは別にして「こういう気持ちになった、作品の意図はこれこれだと思う」と言える。

 

でも日常的にこれは割と難しい。気持ちを反芻する、ということ。

なぜなら私たちは「こういう気持ちになった」と説明したり表現するよりもっと前の、感情が生まれるよりももっと前の、そんな曖昧な感覚が大量にやってくるのを日々うまくやりこなさなきゃいけないから。自分の気持ちを何でもいいからそれっぽく整える余裕なんてほとんどないからです。いっこいっこ真面目に向き合ってたら、生きるなんて絶対無理だよね。

この曖昧な感覚というのは、私の心?いのち?を直接的に震わせるようなもので、これらを言葉やら絵やら音楽やらで表現するのはとっても難しい。私は絵も音楽も得意じゃないから、とりあえず言葉に頼ることがあるけど、でも言葉にできることなんて1000分の1にも満たない、本当にわずかしかない。

とても素晴らしい表現に出会うと「こんな伝え方、表現ができたらどんなにいいだろう」と憧れるけど、私は私のできる表現の枠を出たことがなくて、それは勇気がないからなのか能力がないからなのか、でもそれを確かめる勇気もない、ということはやっぱりないのは勇気の方かもしれないなあ。能力だって、きっとないんだけどさ。

 

だって私は、自分が一番好きなことについてすら、ちゃんと説明できません。

「どう好きか」とかじゃないよ、そんなんよりもっと初歩的な、例えば「一番好きな食べもの」とか、そういうの。

関西の人に聞かれたら「御座候」って答えるけど(全国的には今川焼とか回転焼きと呼ばれるやつです)、外国で出会った現地の人に聞かれたら、相手にも分かるように「SUSHI」とかって答えると思う。期待にも応えられるし。

つまり何かについて答えるとき、そこには必ず「よそ行きバージョン」というものがあるんですな。

こんなの何だってそうで、他にも「本当に好きな音楽」と「よそ行きの好きな音楽」とかね。皆さんはどうでしょう。

好きな音楽を教えて、おすすめの音楽を教えて、と尋ねられて、ベッドの中でひっそりと聴いている、自分だけの、きっと自分だけの音楽を教えてくれる人はおそらくいない。

辛い悲しい苦しいもそうで、自分の中で一等辛いことをそのまま話せる人なんて多分いなくて、みんな「よそ行きの辛いこと」をちゃんとネタとして持ってるんじゃないでしょうか。

騙してる、とかじゃないよ。そんなしょうもないことじゃないよ。みんなさ、自分も相手もずぅん、と沈んでしまわないように、目の前の人に合ったものを知らず知らずのうちにカスタマイズして提示することがほとんどな気がする。

でもこれはそんなに悪いことではない、というのも「よそ行きバージョン」が本当の自分に寄ってくることがあるからです。向こうから寄ってくるんです。そうなったら、一等辛かったことは二番目か三番目くらいに落ち着いたりしたりしなかったり。

よそ行きじゃない、本当に自分が好きなものや嫌いなもの、楽しい嬉しい辛い悲しい、いろいろの事情について話せる相手がいたら、それはすごいことなんだよ。

 

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ABOUT ME
ゆきみん
「自分を仕事にするヒント」。"すごい人"じゃなくても情報発信で生きるための方法をお伝えしています。YouTube登録者数2万3000人。「もしもアフィリエイト」ダイヤモンドランク、その他ASP2社で同等成果継続中。書くことが好きです。