とても探している小説があります。ググっても、Yahoo!知恵袋で聞いてみても(人生で初めて使った)一向に回答が付く気配はなく、もしご存知の方がいらっしゃったら教えていただきたいのだけれど。
なぜ未だに探し当てられないのか不思議なくらい、情報はまあまあ揃っている。作者は三島由紀夫で、短編。現代文のテキストの問題文として使われていた。
内容はうろ覚えだけれど、まず登場するのは、目の見えない男性。その男性のために、妻はいつも自分の目に見えるものを詳しく説明する。空の色とか幼い息子の表情とか。で、ある日息子が描いた絵を手にした夫が、何も説明していないにも関わらずとても喜んで(何の絵だったかな…)、その喜ぶ様子に妻が言いようのない感情を抱く、といった感じ。だったかな。いろいろ間違えてるかも。タイトルは「太陽」だったと記憶していたはずなのにいくら調べても出てこないので、おそらく太陽あたりの関連語だと思います。
で、なぜこの話をそこまで覚えているのかというと、テキストの設問に「夫が息子の絵を喜ぶ様子に妻が抱いた気持ちは、次のうちどれでしょーか」的なやつがあって、その答えが「嫉妬心」だったから。
ううむ。
他人、もしくは自分の感情を説明するとき、私たちは時折「嫉妬」という言葉を使います。私はこの「嫉妬」という感情はそう簡単に語れるものではないと常々思っていて、なぜなら嫉妬は、他のいろいろな感情に一時蓋をするための仮の感情であり、それ自体で「こういう感情」と説明するのが相当難しいからです。嫉妬を解体した先には案外、明確な何かが潜んでる。
「勉強ができる人に嫉妬」するのだって、勉強ができない自分、ひいては勉強に熱心になれない自分に対する苛立ちを直視するのを避けられるという、嫉妬心を持ち出す根本的な狙いはそんなところでしょう。ま、勉強なんてできなくても問題ないけれど、他に好きなことややりたいことがないと、焦るのは仕方ないよね。成績優秀な友に向けていた憧れが「憎悪」に変わる前に、比較的優しめの「嫉妬」という言葉に落とし込んでおいて(そういうことにしておいて)、それでなんとか平常を保ってる。だからなんというか、嫉妬というのは感情が行き着いた最終結果というよりは、とても過程、すごく過程。
他にも例えば、恋人が自分以外の人に優しくしてて嫉妬、とかね。そんなのも、単純に「私以外を見ないでほしい」という一方的で恐ろしい望みを、ちょっぴり受け入れられそうな言葉に変えて(いやしかし嫉妬、という漢字の並びは結構怖いよね、私はいつも同時的に源氏物語の六条御息所を思い出す)、それでなんとか乗り越えているだけの話で、根っこの部分には、決して外には出せない煮えたものがありますよねえ。
だからくだんのテキストで、設問の答えがズバリ「嫉妬心」だったことに私は納得できなかった。嫉妬は確かに、今はまだ嫉妬としか言葉にできない、いろいろが整理できていない状態の時には使うだろうけれど、でも結論ではないから、設問の答えにはならないはず。と私は思うのだけれど、どうでしょう?
ところで、私は「自分は嫉妬している」と正々堂々と言える人は、とても素敵だと思う。すごく好き。そもそも自分が嫉妬してる事実にすら行きつかない人って、結構多いんですよ。「何だか分かんないけど、私あの人嫌ーい」って、そこでもう思考がストップしちゃって。だから、自分が嫉妬してるという事実に気付くだけでも、これが結構すごいことなんですな。個人相談でも、嫉妬についてのご相談を時々いただくのだけれど、みなさん驚くほど素直で、なにより芯がある方だと、話していてすごく伝わってくる。「嫉妬している」事実に向き合おうとし、その根本の原因を探ろうとする人は、自分の「ややこしさ」「めんどくささ」から逃げない人だからです。
一方、嫉妬心を解体しない人はどんな行動に出るかというと、「諦め」や「尊敬」に逃げます。「私にはどーせ」と諦め、「やっぱりあの人はすごい!」と尊敬しちゃえば、自分の汚い部分だったり、青々しい部分を隠すことができ、クリーンな人間のままでいられるから。これは、とても楽です。
ただし、嫉妬に向き合わなければどうなるか、私は身をもって知っています。これまで嫉妬心を抱いた、自分より成績の良い人々、夢を叶えた幼馴染、よく仕事ができて人気者の同僚、飲み会の場でチャキチャキ動ける人などなど、こんなのは挙げればキリがないけれど、彼らに対して「私にはないものを持ってるから」と諦め、「やっぱりすごいよね!」と尊敬し、嫉妬をなかったことにするのはとても楽でした。しかし、そうして諦めと尊敬に逃げた結果、「嫉妬」が持つ莫大な可能性をみすみす捨ててしまったのも、また事実。
嫉妬するのもよし。諦めたり尊敬したりもよし。それも一旦はいいのだけれど、落ち着いてきたら、そっと彼らの元へ戻ってみるのが吉。
すぐには無理だよ。私も上記の彼らのところに戻るまでには、かなり時間がかかった。でも、戻って良かったと、今は心の底から思っている。あ、これは「嫉妬を乗り越えれば人生が前に進む」のような、そんなつまらないことじゃありません。戻った先で、彼らから何かもらえるわけでもないです。こっちが勝手に嫉妬してただけだから、当然だよね。
戻る意味ってのはそういうとこじゃなくて、嫉妬の根っこを解きほぐしてゆけば、向き合ってこなかった自分の「ある部分」にとうとう向き合うことができる、自分という者の感情を、これまでとは違った角度から観察することができる。ここだと思う。なのであくまで大事なのは過程、ということになります。
ところで、嫉妬心を抱いた対象とうまくやるのって、現実問題、なかなか難しいですよねえ。仲良くする一番いい方法は何でしょうか?
とても単純だけれど、私のおすすめは「ねえねえ」です。
分かります。プライドや自己肯定感の低さ云々が邪魔をして、なかなか自分から「ねえねえ」と言えない。でもね、えい、と言ってみてください。すごい仕事をやってたりする人に「ねえねえ、仕事たいへん?」って聞いてみてください。これで万事解決。案外みんなすごく優しくて、なあんだ、ってなりますよ。