こういう生活をしていると頻繁に聞かれるのは、「毎日何してるの?」です。
私がここ数年淡々とこなしている、家とスーパーとカフェのトライアングル生活にも僅かな、しかしはっきりとした違いは日々あるもので、そう、あります、あるんです。この世界には面や点が常時ものすごい数で存在していて、や、それらが世界を作っているから当たり前なのだけれど、そこに自分や他人の面や点が加わり、空気や温度、においなどが絶え間なく変化を続けていて、この動きを見逃さないように、見逃さないなんて不可能だけどそれでもなるべく、ほんの少しでもつかまえて見てみようとすると、やることは案外たくさんあります。
うまく説明するのが難しいけれど、私は今、こう見えて(どう見えてるんだろう)、きっと「挑戦」しているのだと思う。ここへきてやっと。「挑戦」という言葉はあまりしっくりこないけれど(とても強い感じがするからね)、ただ、「すごく大きな不安がある中、果たして状況はこれっぽっちも変わらないかもしれないけれど、それでもやるべきだと思って頑張ってみる」これを「挑戦」と言うのならば、私は今、無力ながらに、「挑戦」しているのだと思います。
これまでの人生を振り返ってみると、挑戦なんて、恥ずかしいけれど一度もしたことがありません。会社辞めてフリーになった、ネットで意見を言ってみた、海外で暮らしてみた、そんなのは私の人生の文脈においてはただのイベント、数ある「出来事」の一つに過ぎず、まったく挑戦ではありませんでした。なぜなら、こうしたことはそれ自体で割と「意味がある」ことに、この社会はとりあえずそういうことに、してくれるからです。意味があること、人生が前に進むように見えること、なんだかすごい感じに見える、ちょっと人と違うことだったり、もしくはまったく同じことでも良いのだけれど、そういうことをやればこの社会は私たちを認め、受け入れてくれます。だから今の時代を生きる私たちにとって、「意味があること」を愚直にやるのは、とても大事。意味があることをやり、人様の役に立ち、お金をもらい、ご飯を食べ、それでやっと生きられる世の中だから。なので私はこれを否定しないし、むしろうまくやれる人が限りなく増えてほしい、私だってうまくやらないといけないと、いつも思っています。難しいけど、私たち、頑張ろう。私もできるだけ、協力します。
ただそれとは別に、そうした「意味があること」をうまくやる過程には、明らかに自分の「根本的な部分」が欠けていて、なんというか、とてもなぞっている、もう既にあるものを、他人の何かを、どうしたってこれはなぞっているとしか思えず、それで、私の中のある部分に元々あったひずみが少しずつ大きくなってゆくのを、一番近いところで長らく見ていました。そして今、私は自分自身の存在の仕方、世界への参加の仕方、そのいろいろを少し調整しなければいけないと思っています。もちろん、なぞるのも大事。決して簡単なことでもないから、これからも一生懸命なぞり続けます。でも、それとはまた違うところの話があります。
いつかは向き合わないといけないと思っていたけれど、ただ怖くてできていませんでした。でもこれは私が私としてやらなければいけない、というか、もう、そうやってしか、私は生きられない気がとてもしています。具体的に「これをやる」とかじゃなくて、そんな端っこの話ではなくて、この世界に向き合う姿勢、自分を外に出してゆく時の質や量や流れ、これはもちろん書くとか声に出すとかの話でもなく、自分の中にあるものが外に触れる時の触れ方、ってことなんだけれど、そういうところを、もっとちゃんとしたいです。誰かに認めてもらうとかではなく、自分自身が最後までそこに視点を持ってあげるということ。哀れに思ったり悲しんだりするのではなく、その様子を大切に想ってあげるということ。これには、一種の諦めを含めてゆくことも、とても大事になってくるかと思います。宣言して示すことさえできない、結局目の前に見えている木の、そのたった一枚の葉を揺らすことさえできないかもしれないけれど、それでも私はやらないといけない。やらなくていいと言われても、やります。そうしないと、生きていけないからです。
きっと宣言しなくても、みんなそれぞれ言葉にならない、できない挑戦をしているのだと思うし、だから私の挑戦も、そんなみんなの挑戦とおんなじです。
この世に生まれるしかなかったあの時から、「正しさ」なんて存在しない世界で、私たちはとても頑張っている。本当に、よくやってる。「意味のあること」と「意味のないこと」を半分ずつでさえ混在させることが許されないこの世界で、「意味」って何のことかすら教えてもらえないこの世界で。だからもう少しだけ、何にも期待せず、真っ直ぐに生きてみよう。