一通り試した。改善しなかった。
私は極度のあがり症だ。
人見知りや声が小さいのも、元々はあがり症が原因だと思う。
「緊張をなくす方法」と言われるものは、十年以上に渡り、片っ端から試してきた。
リコーダーのテストを控え、放課後の教室で毎日イメトレ。(本番3回笛を落とした)
面接に、一杯飲んでから行った。(落ちた)
プレゼンに向けて夜通し練習した。(本番過呼吸になった)
等々。
私は方法を諦めた
何をやっても上手くいかないので、だから方法を諦めた。
勉強でも何においても、「方法」「ハウツー」と言われるものは魅力的だ。
一瞬で悩みを解決してくれるように見える。
でも、結論、「方法」は何も解決しないね。
その場を上手く乗り切ったとしても(エクセルの使い方とか?)、考え方・世界を大きく変えてはくれない。
一種マーケティングの要素を含んだ、「方法」という魅力的な言葉に惑わされてはいけない。
方法を探す、という作業は、楽な上に良い言い訳になる。
自分のコンプレックスに向き合い、考えることを避けているのに、そうは見えないのだから。
そもそもなぜ緊張をこわがるのか?
「緊張は誰でもするもの。だからこわがるな。」
そんなの百も承知だ。
でも、分かっていても、毎回こわい。
なぜだろうか?
それは緊張した後の、あの嫌な恥ずかしい気持ちを味わいたくないからだ。
前に立っているその数分の感情よりも、終わってからの感情。
意味がないと分かっていても、噛んだり吃ったりした瞬間を反芻した経験はないだろうか。
結局、他人ではなく、みじめな自分がこわくて仕方ないのだ。
問題は緊張した後だった
要するに、緊張自体がこわいのではなく、「緊張後」がこわい。
自分で緊張後の感情を整理できないから、こわい。
逆に言えば、緊張後の感情をどう整理するか。大切なのはここだと思う。
事前に自分の感情をコントロールするなんて、よくよく考えれば、かなり高度な技だよなあ。
性格で損している
生まれ持った性格のせいで定期的に嫌な思いをする。
これはこれで一つの経験とも言えるけれど、単純に考えて損だよなあ。
緊張しない方法を探すのも、なかなかに飽きてきませんか。
事前準備が多すぎるし、効果の保証もない。
ならば、緊張への対処は、緊張した後で十分ではないだろうか。
緊張について考えるのは、やめよう
着眼点を緊張の「前」ではなく、「後」に変える。
大切なのは、タイミングだ。
明日色々控えているみなさん、今日はゆっくり、おやすみなさい。