先日、図書カードをいただいて、これが本当に嬉しかった。
「本を選ぶ時間を作りなさい」
「悩みから離れる時間を作りなさい」
プレゼントの意図が分かっていたから、私はとても長い時間をかけて一冊の本を選んだ。
学生時代から、本にだけはお金を惜しまなかった。
本を自由に買えることが、私にとって最高の贅沢だから。
育った家庭環境によるものかもしれない。
友達の家庭みたいに、旅行や遊園地にしょっちゅう出掛けたりできるような家庭ではなかったけれど、本棚だけは、少なくとも校区内の他の家庭よりも充実していたと思う。
押し入れのスペースに、母親が少しでも上等に見えるようにと木目調のカラーボックスを並べて、そこに沢山の本を詰めてくれた。
新しい本はほとんどなくて、古本屋で買ってきたもの。どこかから拾ってきたもの。図書館で借りてきたもの。
親戚の叔父さんから誕生日にもらったこども大百科だけが、カビ臭い本たちの中で異様にピカピカつるつるしている。
色々混じっていたけれど、大好きな本棚だった。
「あの子の家にはゲームがない」
小学生たち、放課後誰かの家に集まって遊ぶとなればテレビゲームが主流であって、しかし私の家にはゲームが一切なかった。
だから、学校では仲良くしてくれる親友たちも、放課後は他の子の家に遊びに行ってしまうのだった。
でも、ひとりだけ、よく来てくれる子がいた。
「あの子の家にはゲームがない」
の続きは、
「あの子の家にはゲームがないけど、本がある」。
これを小学生ながらに理解していた友達だった。
その子が家に来ると、母が小さなテーブルに手作りのケーキを出してくれた。
母が作るシフォンケーキは本当においしくて、そのおいしさは愛情によるものだと分かっているから、私は母のケーキを誰にも食べさせたくなかったし、独り占めしたいと思っていた。
でも、その子にだけは食べて欲しい、ぜひこのおいしさを共有したい、と心の底から思ったのだった。
母は小学生たちに対して、キャラクターの絵がついたマグカップとかではなくて、ちゃんとしたティーカップでミルクティーを出してくれた。
まるで「ティモシーとサラ」のお話みたいだった。
ケーキを食べた後は、二人で本棚をじっと眺めて、どれを読もうか、それぞれで考える。
自分の本棚から本を選ぶ。
毎日していることなのに、横に人がいるだけで、いつもの本棚は初めて見る本棚。
そして本を選んだら、一冊の本を一緒に読むなんてことはしない。
それぞれで読むのだった。
不思議な時間だったけれど、同じテレビ画面を見ながらゲームするよりも、ずっと繋がっている気がして、あ、繋がる、というのはそこに会話や、共有する形だったものがなくても、十分成立するのだと思って。
空気は変わらず、特別なことは起きず、同じ場所でただただ時間が過ぎていくのを背後で感じながら、それぞれの世界に住む。
その子が学校の図書室の本棚ではなく、私の家のカラーボックスの本棚を毎日見にやってきてくれることの意味も、そのときはうまく言えなかったけれど、とても分かっていて嬉しくてもどかしかった。
シフォンケーキが焼けたときのにおいがまだ家中を包んでいるのに、必ず17時はやってきてバイバイ、17時だからバイバイ、でもまだ読みたいなあ。
この本借りてもいい?
いいよ。でも、明日も来てくれる?
今日、いただいた図書カードを使った。
自分のお金ではなく、大切な人たちが少しずつお金を出してくれて、一枚のカード。
だからこそ本を選ぶのもいつもよりずっと慎重になって、その緊張感がとても幸せだった。
図書カードを使う。
そのためには、私は外の空気を吸って、歩かなければならない。
アマゾンのギフト券は暗いひとりの部屋の中でも使えるけど、図書カードはその点少し不便で、でもこれほど意味のある不便さもなかなかなくて、図書カードは1万円に不便さをプラスしてリボンがかけられているんだよ。