日記

お金にならない

太陽の塔の土偶

 

私が好きな人はみんな私に「もっと文章を書きなさい」という、どうしてか、揃いも揃って、私がこの人好き、ええ人や、と思う人はみんな私に文章を書きなさい、いや、書きなさいとまでは言わない、でも書いてほしいな、できれば書いてくれると嬉しいな、とかって、私の好きな人はそうやって私にやさしい顔で、でも時々は神妙な面持ちを以ってして、私に言ってくる。会ったことない人も、なんだか遠慮がちに、いや、遠慮がちだと私が感じてるだけかもしれない、だってはっきりと「書いてほしい」と送られてくる。

私は私の書いた文章や書く前の文章をたくさん、いや何を根拠にたくさん、と言っていいのか分からないけど多分平均よりかは持っていて、この平均も予想でしかないけど、まあ少なくとも今自分が住んでる地域の人らの中での平均は上回ってると思う。でもそれらを人様に見せたことがないし、もし、もしもこんなものを全部見せたら、私の好きな人たちがわずか私に向けてくれてたやさしさがろうそくの火が消えるみたいにふっと失われるんじゃないかと、もうずっと長い間そう思ってるしそれで苦しい。

でも私には分からない。何が分からないって、私が彼らを好きになったのと、彼らが私にもっと文章を書きなさいと言ったのは、どっちが先だったのか、ということ。これが分からないと色々の前提というか、判断基準は曖昧になるので、なるべく考えないようにしている。けど、せっかくなのでさっきちょっとだけ考えてみたんだけど、どうだろう、私は自分の書いたものを受け入れてくれるから、だから彼らのことが好きなだけなんかなあ。私の文章や言葉が私から完全に離れた場所にぽつんと置かれていたとしても、彼らはそれを拾い、家まで持って帰ってくれるんやろか。ま、べつにそんなんどっちでもいっか。

 

人は、自分に都合のいいことだけを見たり聞いたり感じたりするらしい。これは無意識のうちに行われるものだそうで、自覚なしに選び取ってるんだそうで、だからこの事実に則ると、やはり。

他にも例えば「私だけ、なんでなん、ひどい」と思うことがあったとしても、それは自分はなんてかわいそうなんだろうと思いたい自分が、それだけを見ようとして起きている現象であり、そうやな、べつに今日だって食べるものも寝るところも一応あるもんな。みんな、信じたいものを知らず知らずのうちに選んで信じてるってこと。かみさまなんて信じない、私は無宗教だ、って言う人だって、それさ、かみさまがいないことを信じてるっていう、それもまた宗教というか信仰なんじゃないの。

私を私と信じることも、これだってカンタンなことではなく、私は毎朝、今日も私であることを認識するのに少し時間がかかる。皆さんはどうですか。この話をこないだ何かのきっかけで母親にしてみたら、頭おかしいんじゃないのって言われて、私ははっきり悲しかった。だから、同じじゃない人もいるかなと思って。

 

起きるとすぐに考える。私起きた。今。さっきスマホで見たのは2:07。ここで本読んでた。で、いつの間にか目を閉じて、そして今だということ。目線の先には本がある。さっきまで読んでたはずの本が。だからきっと、さっきまで本を読んでいた私と、今ここで目覚めた私は同一人物だということ。そしてちょっと、死にたいと思う。私の一日は、もうずうっと、20年以上こんな感じで始まってる。

 

私たちは大概、自分以外の人とは言葉を使ってやり取りします。通じるんではないか、やってみたら万一通じるんではないかと、来る日も来る日もめげずに試みてます。そこには、使う言葉に対してのある程度の信頼というか、信仰がないといけない。私の場合は音楽とか絵とかそうした芸術的伝達手段に関する能力が皆無だから、だから言葉を使うしかなくて、それで書いたり話したりして、これも別に得意とかじゃなくてもうこれしか選択肢がないから仕方なく、なんか上からみたいで嫌な感じだけど、まあそれでも仕方なく、言葉を使ってるわけです。でも私は言葉ほど曖昧で頼りないものはこの世に存在しないんじゃないかと常々言葉には疑いの気持ちしかなく、なのに言葉にすがるしかない自分が情けなく、毎日がとても憂鬱(この辺の話はここに書きました)。

だから言葉を使うという行為は、どこにも辿り着かない曖昧なところに向かって、ただその薄くて柔い曖昧さを祈るように幾重にも重ね、一応自分なりに形にしてみたものの、結局昨日も今日も飽きもせずに永遠に納得のいかない言葉のかたまりを作ってしまったみたいなところがあって、元々あったモヤをこねくり回してちょっとだけ形の変わったモヤにしただけで、その前と後では何にも、驚くほど何にも変わってなくて、むしろこねくる前の方がマシやったんちゃうか、と思うこともよくあって、だから、だから何ってわけでもないけど、だから結局そうやって死ぬまでの暇を潰していくんしかないんやなと、いつも諦めの気持ちです。

 

私には自分のめんどくさい部分についての自覚が一応、ある。いや、人間というものは元来とてもめんどくさくてややこしい生きものであって全員がめんどくさいんだけど、私も私でちゃんと自分のめんどくさい部分を、ちょっとは理解してる部分があります。

それというのは、自ら進んで悲しそうな方を選ぶ癖、いわゆるネガティブ方面を好み、どう考えたってこっち行った方が明らかに人生ハッピーやん、と周りも自分も分かるようなポジティブ方面を、積極的に避ける。これが私のめんどくさい部分です。

しかも厄介なことに、ここには「自分に試練を与えて成長したい」といったようなそんな眩しい大義があるわけではない。暇だから。単純に、死ぬまで暇だから。それでややこしい方を選んでるという、本当に平和ボケの極みと言われたらもう何も言い返せないんだけど、このような感じで生きてきたし、多分これからも、このようにしか生きていけないと思う(平和が続けば)。

分かりきってる幸せをなぞるなら、地獄でも見てる方がマシだもの、なんてロック?なことを思ったりするんだけど、でも実際は地獄に耐えられないことも多く、ギリギリで、それで周りに迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。本当にごめんなさい。これまで私に関わってくれた、関わりたくないのに絡まれた、みたいな方も含めてみんなに謝りたい。

 

でもな、お金に、お金にならんのよ。でも、っていうか、当然なんやけど、お金にならんの。

私が好き勝手に選んだ場所でモヤをモヤに変えたところで、世界は何も変わらないのでお金にならない。変わらないっていうか、あれ、なんていうんやっけ、社会貢献?そう、社会貢献とは言えないから、お金にならない。曖昧なものを曖昧なものを使って曖昧にしたところで、お金にならない。お金は、人のためになってはじめてもらえるのらしい。これ資本主義のキホンなんだってよ。生きていくの辛いなあ。人生長いなあ。それでも、なんでか私、毎日お腹すくねん。だからなんか買って食べなあかん。そのためにはお金がいるって。

どれだけ不平不満を並べたところで、私もこの社会に身を置いてるわけで、しかもデモやったり切腹したりはめんどくさくて、してない。だから、そんなん一体どの立場から言ってるん?って感じだけど、私は私の立場で、こんなことを思っています。

 

今の社会はいつから始まったんやろか、と時代を遡ってみると、お米が入ってきた弥生時代あたりからになります。その前は縄文時代だね。

5年生のとき、歴史の授業で縄文時代のこと教えてもらってんな。4月に配られた時間割に「歴史」って書いてあって、なんかすんごい大人になった気持ちになって、珍しく私ワクワクして教科書、先の方まで読んだら楽しみがなくなる気したから、先生に今日は何ページ開けて、って言われるまで開けんようにしてた。

2回目の授業やったかな、先生が縄文時代の話してくれたんは。私、授業中先生の話聞きながら泣くのん喉に力入れてぐぐぐぐって我慢して、授業終わったら校舎の外に早歩きで出てって、水飲み場の横で隠れて泣いたん、今でも忘れられへん。なんでかわからん、感動とかじゃ全然ない、そんなんじゃない、なんで、なんで今はこうなってしまったん、何がどうなって今になってしまったん、なんで縄文時代のまま今までこんかったんって、生きたことない時代を思って後悔した。大後悔。そこに羨望、嫉妬、恐怖、そういうものが入り混じって、クラスのみんながドッジボールしに出てきた声も混じってきてなんかぐちゃぐちゃになって、残りの休み時間使って呼吸整えて、落ち着いたところで考えたのは、今がガラッと変わって縄文時代に戻ったりするなんてありえないってこと。来るとこまで来てしまったってこと。小学生の割にそういうとこ冷静やったな。運動場の向こうに見える高いビルや高速道路を見ながら小5の私は絶望した。

教科書では3、4ページしかないから忘れがちだけど、縄文時代ってのは1万年も、そう、1万年も続いたすんごい時代なんです。時代というのは多くの場合、争いごとが起きて権力者が変わることで変遷してゆきますね。で、縄文時代というのは1万年も続いた平和な時代。

木の実拾いに行ったり、魚獲ったり、狩りもする。もちろん狩りができない人はおうちで待ってていいんです。仕留めてきた人たちが、ちゃんとお肉分けてくれるから大丈夫。独り占めしたりしないから。今日拾った栗もみんなで一緒に食べよう。

暇な時間は土器作ったりイノシシの牙のペンダント作ったりして、でもそれ別に売るためのものじゃないから。市場的価値なんて、そんなん思い浮かべることすらなく、誰々が作った土器やから高値がつく、とかそんなん夢にも思わず、ただひたすら自分たちの好きなものを好きなように作って、楽しいなあ。んで、現代の私たちはそれをお金払ってありがたく見させてもらってるというわけです。あのときみんなでなかよく、あれこれ言いながら作った土器やアクセサリーに優劣つけたりして。

働く必要を作ったのは、私たち。でも、働きたくない、今日も仕事行くん嫌やと嘆いてるのも私たち。嫌なことをしてる人はエラい。だから働く者はエラいって。働かない者はダメだって。働かないやつは、怠け者やって。そんなことある?そんなアホな話。怠け者といえば、自分たち以外の生きものにまでナマケモノなんて名前つけて、小バカにしたりなんかもして。ナマケモノ、怠け者、つまり怠惰な者と書いてナマケモノ、なわけで、それってめっちゃ失礼、資本主義的な名前勝手につけて、私はこの社会を代表して彼らに謝りたい。

ナマケモノってすごい生きものなんですよ。私ら人間みたいに全然めんどくさくもないし、ややこしくもない。ほんと、ただ生まれてきて死んでゆくって感じ。ナマケモノなんかじゃない、エライモノです。興味ある方は調べてみてくださいね。

 

ほんとうのところ 今日はなんというか、何かがしっくりこない人がいつもより多いかもしれないけど、今日この世を去った良い人、悪い人、ふつうの人。それぞ...
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ゆきみん
「自分を仕事にするヒント」。自分をマーケティングする方法をお伝えしています。YouTube登録者数2万4000人。「もしもアフィリエイト」ダイヤモンドランク、その他ASP2社で同等成果継続中。書くことが好きです。