私の地元では、驚くほど高齢化が進んでいる。
別に良いも悪いもない。ただ、数年ぶりに地元で2ヶ月ほど生活してみたところ、街の雰囲気がどっかり変わった感じがあって、でも新しい建物ができたとか逆に潰れたとかそんなんもなくて、何がどうなってのこの変化。ううむ。と悩んだところ、果たしてそれは街を行き交うおじいちゃんとおばあちゃんの総数なのであった。これは決して体感の話ではなく、さっきちょっとググってみたらこの街、1990年あたりから80歳以上の人口が増え続けている。
ご高齢者にとって特別住みよい街というわけでもなし、若者に嫌われるような街でもなし(田舎だけどそこまでさびれてないのよ)、ではどうして、と考えてみればとても単純、数十年前は若者側だった方々がこの地を出ることなく、順調に暮らしを営まれてきただけの話。だから高齢化はここ数年の話ではなく、随分前からじわりじわり進んでいたんだけど、進学・就職等々で地元にじっとしてなかったから気付かなかった。
いつものカフェでおじいちゃんやおばあちゃんの会話に耳を澄ませるのは大変に楽しく、もう顔ぶれも決まっているもんで、私もついぞ入れてもらえそうな気がしなくもない今日この頃。昨日は珍しく若者も若者、女子高生3人組が向かいの席で試験勉強をしていて、そこにやってきたのは例のトレーのおじいちゃんだった。きたっ!と私は心の中でそっとワクワク、おじいちゃんはさっそく彼女たちが広げている数学の青チャートを検閲するかのことくじいっと見入り、以下のセリフを店中に響き渡る声で言い放った。
「サインコサインタンジェント!!覚えてるっ!俺らの時代もな、勉強したんやあ!せやけどな、俺な、郵便局も市役所も学校の先生もな、ぜんぶ落ちたんや!!勉強してもな、あかんかったんや!!!」
…あかん。私、このおじいちゃんあかん。絶妙にツボる。鼻の下にぎゅうと力を入れても今回ばかりは思わず吹き出してしまって高校生たちと目が合い、一緒に笑って楽しくて、よく見てみればその子らは私の出身校の制服着てて、「実は先輩でござい」って言いたくなったけどそれはやめといた。
おじいちゃんは要するに、教科書のお勉強なんぞ役に立たない、サインコサインタンジェントは就職の面接に不要、実用的な知識ではないのだから、そんなものはさっぱりやめてしまってよいのだ、と言いたかったのだろう。そして高校生たちもそんなことはとうの昔から知っていて、でも勉強しないと人生がどうなってゆくのか、おおよその見当すらつかないため、仕方なく目の前にある三角関数の問題を解き続けており、これはある視点で考えれば確かにおじいちゃんは正論であるがしかし、世界は何とも動かしにくく、この動かしにくさはまだまだ続きそうな予感。
そんなことを考えながら、いつか会社の先輩が「役に立つかどうかを考えて行動する人は、底が浅い人間だ」と言っていたのを思い出した。これは、おおよそ「資本主義社会は自分には合わない、縄文時代に生まれたかった」というようなことを(シラフで)愚痴り嘆いていた私に先輩が与えてくだすった言葉で、つまりは「あなたはあなたでよいのだよ」ということで、あの瞬間、私は心がまあるく整ってゆくのを感じた。先輩はたまに栄養剤のような言葉や文のかたまりをポン、とくれて、でもそれらについて詳しく解説したりとかはなくて、そういうのってなかなかできることじゃないから、とてもすてき、私もこんなふうでありたい、といつも思っている。
役に立つ、立たない。それって、何を基準に。稼げること。地位を手に入れること。有名になること。手に入れた知識や経験、それをどう使えば、何がどうなって、社会が、世界が、どうなるのか。どうなれば役に立ったといえるのか。「一見役に立たないようなことにこそ価値がある」そんなのもさ、死ぬほどつまらない。つまらないよねえ。